来年はヨガをしている人たちへのワークショップ、連続講座をやりたい。

長いことヨガの指導に向き合ってる人ならば

ヨガをしているその人が

 続きそうだなー、とか

 いい練習してるなー、とか

 からだのここがあれだなー、とか

みてればある程度はわかる。

 

ヨガができて幸せってのはわかるし

できなかったポーズができるようになったら嬉しいのもわかる。

でもそれが目的かというと、また違う。

 

マットの上以外の生活が幸せだから、ヨガができてもっと幸せだから。

ヨガは生き方、生活そのものでマットの上以外のことの方が大きいし

自分の人生のために、マットの上の時間がある。

 

けれども、栄養の話でもよく

食欲を満たすか

空腹を満たすかというのがあって。

 

本来からだに必要な栄養を満たすものを食べていれば、空腹を感じる。

でも栄養の不足でからだの機能は落ちているのに

ドーパミンやアドレナリン出してその辛さはごまかして日々動くことをしてれば

からだを満たすよりドーパミンを出して脳を満たしてくれる食事を欲する

 

結果、からだは疲弊するし、メンタルも病んで依存から抜け出せない。

 

ヨガも似てるなと思う。まぁ、多分他のことも同じだと思う。

依存先がヨガになっただけで。

そこから抜け出したければ、そうである自分を受け入れること。

 

マットの外で得られないものをマットの上に求めても

多分そこには何もない。

マットの上は、マットの外の自分の人生が反映されてるようなもんだから。

潜在的なものを見ずしてその枯渇が満たされることはない。

 

ヨガにハマって夢中になっている時間は楽しい。多くの人が通過する経緯。

でもね、その先があってマットの外の世界がリアル。

あなたの側にいるその人がリアルな自分の姿。

 

その先を見据えて今何を伝えるか、と導いていくれる先生も少ないのかも。

それは仕方ないかもしれない。経験も必要だろうし

ヨガの先生自身が、まだそこに気づいていなければみせようもない。

ともすれば、共依存関係にもなりえる先生と生徒。

 

自らの足でしかと歩んでいるヨガの先生たちはきっと

そんな人たちを遠くから見守る事しかしない。

差し伸べられた手なら取ってくれるかもしれないけど。

続けるのも辞めるのも壊れていくのも、その人が選んだものだから。

 

人生があってのヨガ。

本来、今普及しているヨガそのものが、在家のヨガ。

山にこもって修行していく道ではなく、社会の中で育むヨガ。

家庭とともにあるヨガ。

 

なーんも否定するつもりはないし

楽しければいいしその人が幸せならばいいんだけども。

 

正しく、というと語弊があるけども

良いヨガの練習や瞑想は、脳内のセロトニンレベルをあげる。

セロトニンが鎮静系なら

ドーパミンは興奮系。麻薬と同じ。

 

そういう人の周りには、そういう人が群れる。

同じような人たちと群れていれば

これが幸せなのよね、と言ってくれてだれも否定しないから楽よね。

でもそれは「知らぬが仏」の平和ね。

 

さて、どうしますか?

今のその幸せをぶち壊すことになるかもしれないけど

その先に進む勇気はありますか?

そのままの自分で一生を終えますか?

そのヨガを続けていきたいですか?

 

数百時間の養成講座を経てインストラクターになったみなさんの

体調はどうかな?

メンタルは?人生は?

パートナーやお子さんはどうですか?

 

なんだかんだで、ヨガには思い入れがあって

大丈夫かなーって心配になったり

なんかしてあげられることないかなぁ、と思う。

 

その最中にいる人たちは、見向きもしないだろうけど。

届く人もいるだろう。

 

それは国内・海外のヨガ指導者養成講座や解剖学を担当してきたくせに

その自分がどれほど未熟で全くできなかったんだっってことをさらけだして

今できることをやる、ということでもある。

 

来年はまず単発のWSからできるかな。

そして連続講座へ続けていきたい。

 

ヨガをする人、ヨガを教える人が

自分で自分のからだとこころに向き合っていけるセルフコンサル的な。

 

参加者には全員に血液検査を受けてもらおうかな。

表面的に取り繕ってるのを全部身ぐるみはがされるけど。

見られたくない、見たくない自分が、形となってでてくるから向き合うしかない。

 

きついかなあ。

私の周りには核心をズバズバ切ってくる人がいるから、何回泣いたことか…笑

 

それでも来てくれる人は、準備のできた人のはず。

こうやって書いたら実現するから、私もしかと覚悟を決めるしかないのですね。