分析に意味はない

物事の成り立ちとか

どうやって人は生まれたのか

この宇宙はどうやってできたのか

 

とか

学問は神羅万象、いろんなことを分析しようとします。

 

科学的なことだけでなく

人の気持ちとかも分析し学問になっています。

 

 

自分や身の回りで起こっていることには

どんな原因があるのか

その理由も分析したりします。

 

からだやこころの起こることも

分析します。

 

 

幸せになるには

こういうことが起こるのは過去にこんなことがあるから

自分の生い立ちや家族関係にこんなことから

星の巡りがこうだから

女性だから

ここが痛むのは、こういう心理から

 

数え切れないほどの分析方法があります。

 

かくいう私もたくさん学んでおります。

 

チャクラのこと

からだのこと

いろんなことを。

 

 

それは確かに、助けになります。

病気の時とか

しんどいときとか

その対処法がみつかれば楽になる。

 

でも、結局

その分析には何も意味はないのだ

ということも知っておく。

 

みんな幸せの存在そのものなのだし

生まれながらにして仏ならば

自分を悩ます苦労や苦痛も存在するはずがない。

 

そんな幻想は自ら作り出している夢みたいなもので

夢から覚めれば存在しない。

 

分析したくなるのはそこに意味を見出したいから。

 

 

存在しないものを分析しても

意味がないものは意味がないし存在しないことは変わらない。

 

 

それでしかない。

仏教やキリスト教

インドの非二元一元論も

ただただその夢に惑わされるな

と伝えているけども。。。

 

惑わされますねー。

この世の中、そんなものがゴロゴロしているから。

 

分析は分析で

適宜活用しながらも

そこに惑わされすぎないこと。

 

自分の真なる姿を

相手の真なる姿を

見ようとする姿勢が

少しずつできるようになってきた、ような気がする。

 

惑わされそうな時は

まずシンギングボウルを奏でております。